早稲田祭復活までの軌跡・後編では復活に先立ち開催された2つの大企画の話、そして、「早稲田祭の本質」に迫ります。
2000年8月〜2001年 早稲田祭復活に向けたイベント「わせだまつり」
2000年8月。署名運動等で早稲田祭復活の気運が高まる中、学部長会で2000年も早稲田祭が中止されることが発表された。
したくスタッフに革マル派支持の学生が介入して混乱が起こる可能性は否定できない、という理由で復活とはならなかったが、この告示で早稲田祭中止以降はじめて大学側が早稲田祭復活に関して前向きな言葉を正式に発表した。
その2000年には旧西早稲田キャンパス(現在の本キャン)にて「わせだまつり」を開催。
したくスタッフが中心となり運営し、中止以降はじめての「学園祭規模の大企画」を実現した。
さらに翌2001年には、わせだまつり運営の実績が評価されたしたくスタッフが新学生会館落成記念イベント「WASEDA EXPO」に大学公認で関わっていくこととなった。
―わせだまつりはどうして開催できたんですか?
これはもう本当に力技だしゲリラだった。
大学の施設を借りられるシステムを利用して、したくスタッフに賛同してくれる123サークルが足並みを揃えて大学に申請し、11月上旬の2日間、キャンパス内のホールや教室を大量に借り、大きなスペースを占拠したんだよ!
わせだまつりはあくまで大学公認のイベントではなかったけど、学生だけでやりきることで、「早稲田祭を自分たちで運営していくんだ」という強い意志表示になるイベントではあったね。
―これも署名運動などで多くのサークルが連携し早稲田祭復活に向けた気運が高まっていたからこそできたことだったわけですね。
2001年11月〜2002年「WASEDA EXPO」の成功と早稲田祭復活
2001年11月、新生早稲田祭したくスタッフの協力の下開催された「WASEDA EXPO」は、64企画237団体が参加し、のべ3万5千人が来場する“旧早稲田祭”以来最大規模のイベントとなった。
早稲田祭の復活を見据えたこのイベントの成功に大きく貢献した早稲田祭したくスタッフは、大学側からの信頼を得た。そして、2002年。
そしてついに大学の承認を得た現在につながる早稲田祭運営スタッフが発足。早稲田祭の復活が実現した。
早稲田祭はなぜ、必要か
―早稲田祭を復活させるにあたって、なぜ早稲田祭が早稲田に必要なのかを徹底的に考え直した、ということですが、ずばり、どうして早稲田祭が必要なのでしょうか
早稲田祭がなぜ必要なのか、早稲田祭とは何なのか、ということを考える時、早稲田大学は何なのか、大学って何なのか。そういうことも考える必要があった。
まず、大学は学生・教授・職員・地域の全部が揃っていることではじめて成立するもの、っていう答えにたどり着いたんだよね。
その意味では、「学生も大学を形作る主体」であって、お客さんじゃない。
早稲田大学には、学生がオープンに表現し、お互いに刺激し合うことのできる場があり、そうした場がワセダの気風、外から見るとブランドイメージのようなものを作ってきた。そうした場の最たるものが、早稲田祭なんだよね。
―学生の気運が早稲田を作っている、その表現活動の成果を見せる場として早稲田祭が必要、まさにそうだと思います。
早稲田祭をやる意味の本質はここにある。
大学の一つの主体となる学生が、自主・自立の姿勢をもって、学生の表現活動をよい形で発揮するために早稲田祭という場を継続的に運営していく。そこで、学生たちは自由に表現し、発表し、それが早稲田大学の文化・気風・気概というものを未来に繋げていく。
こういう目的意識がなくなったら、開催自体が目的化した昔と同じになってしまうし、そうなったら早稲田祭はまたいつか中止になってしまうかもしれないね。
まとめ
「早稲田祭のない早稲田を、みなさんは想像できますか?」
これは、冒頭でみなさんに投げかけた言葉です。
そんなものは、想像できるはずがないのです。
早稲田祭で一挙に「華ひらく」学生たちの文化が、表現が、その熱こそが、早稲田を形作るのだから。
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