早稲田大学校歌「都の西北」を徹底解剖

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!
早稲田といえば、早稲田大学校歌「都の西北」ですよね。

入学式で何千人もの希望に満ちた早稲田同志と肩を組みながら都の西北を歌う光景は、正に早稲田文化の象徴とも言えます。今年中止になってしまったのが残念極まりないです…

また、入学式や卒業式、早慶戦で早稲田生が一丸となって歌うのはもちろん、カラオケやロータリーなどで友達と歌う都の西北はエモさがひとしおです。

かつては、早慶戦の晩など、学生の騒動防止のために大学から警戒・指導に出向う職員が、
「おまえら本当に早稲田の学生なのか?本物なら『都の西北』を1番から3番まで正しく歌ってみろ」などとけしかける風景があちこちで見られたそうです。

なんかすごい早稲田らしいなあ。

ちなみに筆者は自身も父親も早稲田の附属校出身なので、幼少期から何度も歌わされてきました。
歌う度に「自分も早稲田の杜の一員なんだ」という自覚が芽生え、襟を正す気持ちになれます。

さて、そんな都の西北ですが、皆さんは歌詞の正しい意味や歌い方をご存知でしょうか??
せっかく早稲田に入ったのなら、隅々まで早稲田を味わい尽くしてほしい。そのためにはまず、校歌をきちんと歌えるようになるのが大切です!

そんな思いで、早稲田大学校歌「都の西北」について、徹底的に調べてみました!!

 

早稲田大学校歌『都の西北』

 

まずは歌詞から!

相馬御風 作詞 東儀鉄笛 作曲
1.
都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ
2.
東西古今の 文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に 輝き布かん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ
3.
あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

 

解剖してみると

歌詞の中に「早稲田」が22回登場します。圧がすごいですね。

他の大学の中の大学名登場回数は以下の通りです。
東大(ただ一つ)・・4回
慶應・・・・・・・・9回
明治・・・・・・・・2回
立教・・・・・・・・3回
法政・・・・・・・・4回

これだけを見ても、都の西北が圧倒的に「早稲田らしい」というのがわかりますよね。

ちなみに、作詞をしたのは相馬御風ですが、最後の「わせだ わせだ」を付け加えたのは早稲田四尊の一人、坪内逍遙だと言われています。アツい!

※早稲田四尊は大隈重信と小野梓のお友達4人(高田早苗・坪内逍遥・市島謙吉・天野為之)のこと。

 

『都の西北』がエモいわけ。

 

明治40年 (創立25周年!) に完成した早稲田大学校歌は、日本の大学で一番初めに出来た校歌
ちなみに慶応義塾大学の旧塾歌は、明治36年作られましたが、早稲田大学校歌を聞いた後に作り変えられ、現在の塾歌は昭和16年のものだそう。
明治・立教・法政の校歌も、全部早稲田大学校歌が出来たあとに作られたもの。
一方、東京大学には校歌は存在しない。「都の西北」は、初の世界水準の校歌だといえます。

ちなみに慶應義塾大学の塾歌には、飲んだら歌わないという決まりがあるそう。塾歌を歌うのは、早慶戦のときだけ。塾歌をまったく知らずに卒業する学生も多いのだとか。

一方「都の西北」は、卒業後何十年経っても、早稲田生が集まれば自然と歌う。酔えばなお歌う。

それが「都の西北」がエモい所以なのです。

 

『都の西北』は、学生の公募から始まった

 

早稲田大学校歌は、創立25周年(明治40年)に制定されました。はじめは、学生からの募集が企画され、23編の応募がありましたが、これという作品がなかったため、審査にあたった坪内逍遥と島村抱月は、相馬御風に作詞を依頼しました。10日余の苦闘の末に、この名作を書き上げました。これに作曲したのが、当時講師であった東儀鉄笛でした。

(引用: https://www.waseda.jp/top/about/work/almamater )

 

そもそも早稲田大学の校歌は、当時文学科講師であった日本近代劇の先駆者・島村抱月の「学生の心を一つにするものが欲しい」という思いによって発案されました。
この案は、師の坪内逍遥に預けられ、逍遥は6年間をかけてイートン校など海外の有名大学の校歌を集め研究しました。

そして上にもあるように歌詞を早稲田大学の学生からの公募で決めようとしました。が、早稲田の理想的な概念を打ち出したものが見当たらず…なんとすべて却下されてしまいました。
そこで、坪内逍遥と島村抱月は、卒業生の相馬御風に作詞を依頼。10日余の苦闘の末に、相馬御風は名作「都の西北」を書き上げました。作曲したのは、当時講師であった東儀鉄笛氏だそう。

その後100年以上にわたって愛される都の西北は、大学講師のアツい想いから生み出されたものなんですね~バンカラだ!

 

『都の西北』は危機に立たされている?

 

以下のグラフをご覧ください。

これは2012年に、学生部が学部学生1万人に対して行ったアンケート調査の結果です(回答者は4,037人)。
「歌詞を見ずに校歌をどのくらい歌えますか」という質問に、「3番まで歌える」と答えたのは回答者の9.4%に過ぎませんでした。

そもそもこのアンケートに回答するような早稲田生は、早稲田に対する意識の高い学生と考えられるため、実際はもっと少ないと考えられます。う〜んなんだか悲しいなあ。

この結果を踏まえ、当時の学生部長の笹倉和幸先生は、「校歌の歌えない早大生は本当の早大生とは言えない。私はこの命題が真だと思うが学生諸君はどうだろうか。【中略】校歌を歌いながら母校から旅立ってほしい、校歌を歌って新入生を迎え入れてほしい、歌詞を見ないで3番まで。」とおっしゃっています。

 

最後に

 

いかがでしたか??
今年は入学式もなくなり、授業もリモートになって、「早稲田の風」を感じられる機会が少なくなってしまいました。
そんな新入生の皆さんが、少しでも早稲田らしさを感じてくれれば嬉しいです。

ちなみに、大隈重信の「人生125歳説」を元に大隈講堂の高さは約125尺の高さで作られました。
どうでもいいけど明日から語れるエピソードですよね!

 

それでは!!!

 

 

参考文献:
① 港稲門会 HP[http://minato-waseda.or.tv/05/04.html] 2020年4月5日閲覧
② 早稲田大学HP [https://www.waseda.jp/top/about/work/almamater] 2020年4月5日閲覧
③ 早稲田ウィークリー特集 「君は校歌を歌えるか」[https://www.waseda.jp/inst/weekly/feature/2013/01/17/47018/] 2020年4月5日閲覧

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